私が記憶する限り、今回の東日本大震災はネットが普及してから初めての大震災だ(もちろん中越地震もあるが死者数千人規模という点では初めてだろう)。ITが復興にどう役立つかを考えるのは大変有益な一方で、次の震災や災害にITがどう立ち向かえるのかを考える時期に来ているのではないだろうか?
例えばGoogleは"地震"と検索すると地震速報がでますと宣伝しているわけだけど、Yahooの用にバナー広告部に速報を出すことはしない。検索ボックス直下に自社の広告を出す余裕があるなら、そこに速報を流すべきなのではないだろうか?何のために彼らは位置情報を取得しているのだろうか?
また災害発生時にどうやって被災地の状況を収集するのかも課題のひとつだろう。携帯電話網とソーシャルメディアの普及で、情報発信は格段にしやすくなった一方で、携帯電話網は回線が常に逼迫しているというジレンマを抱えている。つまり災害発生時にインフラの稼働率を計算できないという弱みを持っている。例えばドコモは音声データをパケットで流すというPTTの再来みたいな事をやるようだが、被災地の状況を伝えるという点では無理があるだろう。例えば地方で災害発生した場合に一番最初に現地に乗り込める金持ちの在京キー局ではなく、被災地のローカルメディアなので、そういったローカルメディアのニュースを即座にUstreamなどに流せるような体制が必要だろう。
日本をハックして復興を支援する事も大事だが、今回の経験を踏まえて次への備えをすることも重要だ。残念な事にこの国に住む限り、地震に限らず何らか自然災害に合わない事は無いのだ。いまやれば次の災害で命を落とす人の数を減らせるかもしれないのだから。
2011年5月19日木曜日
次の災害に備えて
2011年2月23日水曜日
beatrice.js
beatrice.js は JS で ZIP ファイルの解凍を行うライブラリーです。
JS で ZIP の解凍自体は昔からあるのだけど、メガ単位のファイルを処理させるとスタックオーバーフローを起こしたり、最悪の場合メモリが無くなるまでメモリを消費し続けるので使い物にならない。そこで beatrice.js を作った。
元々 File API と組み合わせて使うために作っているので、一度16進数に変換しなくてはいけなくなるので、そこでかなりのオーバーヘッドになっている。
あとinflate や base64 に utf8 は別個に用意する必要があります。
デモ (Chrome と Firefox で動きます。解析時間はファイルサイズに比例するので、大きいファイルを開く場合は時間がかかります。)
2011年1月12日水曜日
H.264
Google Chrom が H.264 のサポートを打ち切る。これはオープンフォーマットを推進するというよりも、自社フォーマットの WebM を促進するための強攻策であると同時に、Chrome が市場に影響力を与えるだけのシェアを持ち始めた事に対する Google の自信の表れだろう。
実際問題として現時点で H.264 をサポートしているのは Chrome と Safari。そして存在しない IE9 だけだ。つまりブラウザシェアを考えると H.264 をサポートしてないブラウザの方が圧倒的に多い事になる。
もちろん広く使用されている H.264 を採用するほうが、作り手側はすべて H.264 で統一できるし、高性能なエンコーダーもあるので、メリットが大きいのだが、その反面後発のフォーマットである WebM への足かせになっている。仮に似た様なスペックでどちらでも使えるのであれば宗教的な事情が無い限り、枯れたフォーマットを使い続けるのは当然の流れだろう。結局の所 WebM はいくらロイヤリティーフリーとはいえ代替の存在でしか無いのだ。
しかし Chrome が H.264 を切れば状況は逆転する。これは MS と Apple の喉元にデファクトスタンダードという刃を突き付けるに等しい。
2011年1月11日火曜日
自然な 3D = 2D
少し前に Tron:Legacy をみた。映画自体は CG で復元された若かりし頃のジェフ・ブリッジスを除いて、観終わった後のガッカリ感も含めて Tron だったわけだが、この Tron:Legacy にも Avatar で使われた Fusion Camera System が使われているのだけど Tron には、最新の Sony F35 というカメラが使われている。この F35 というカメラは映画の上映に使われるフィルムと同じ大きさの 35mm という大型の CCD を使用して、フィルムと同じ情報量をデジタルで記録できるという優れもので、Avatar で使われている F23 と比較して自然な被写界深度を再現出来るようになっている。
例えば Avatar は被写界深度を補うために極端に奥行きを与えた映像にしていて、立体感が分かりやすく作られていた。逆に言えば画面の手前に常にオブジェクトが存在するという不自然な 3D なわけだど、Tron:Legacy ではそう言った演出を添加しなくても、撮影の時点で奥行きを出せるようになっている。
これは一見映像演出として効果がある技術革新に思えるのだけど、そもそも 2D の映像にはフォーカスによって奥行き情報が添加されている。例えば手前に人が立っているとして、その背景がボケているなら奥行きを感じるわけなんだけど、最初から奥行きの情報が添加されている 3D 映画の場合、フォーカスを与えると不自然な空間が作られて目の疲れにも繋がるし、逆にフォーカスを与えないと観客に与えたい情報を与えられないというジレンマに陥る。しかも自然な 3D 映像を作れるようになればなるほど、そのジレンマが増えてくる。
結局の所人間は 2D の映像であっても、脳内では 3D に変換して見ているわけだし、照明効果を初めとして撮影技法の進歩というのは、2D の映像をいかに擬似的に 3D にするのかという歴史でもあったわけなので、結局自然な 3D を追求していくと 2D と同じ見え方という事になるんじゃないだろうか?その点を踏まえると 3D 映画は風景写真のようなワンカットの連続的な表現が良いという事になる。もちろんそれを映画と言って良いのかという問題は別に存在するわけだが…。
2010年11月5日金曜日
TechWave について書いておく
TechWave の批判記事を書くと編集長の湯川氏に BAN されるらしいので、同じく Twitter の不具合なのか BAN されているぽい身として、ここいらで以前から思っていた問題点を書いておく。
TechWave がブログメディアとして基本的に問題あると思うのは、記事の内容が他サイトのコピペであるという部分で、中には本来 TechWave と競合関係にあるはずの TechCrunch の記事を情報源にしている。もちろん IT 関係の出来事はアメリカが中心になるので、他メディアの記事を情報ソースにするのは致し方ない事なのだが、それにしもて TechWave の独自の視点がすべて "蛇足:オレはこう思う" という記事末尾のワンコーナーしかない。つまり TechWave で述べられる意見や考えは、すべて記事執筆者の個人的な意見に過ぎないわけで、TechWave としての意見は無いという事になる。
もちろん個人が主役というのなら、それも結構だが、だとするなら意見の偏りはどう説明するのだろうか?TechCrunch は iPhone をべた褒めする中でも Michael Arrington が iPhone から Android に乗り換える記事を掲載した。もし TechWave が本当にソーシャル思考であるなら、執筆者全員が電子書籍やソーシャルといったバブリーな記事に偏っているのはどういう事なのだろうか?そこに疑問を差し挟む視点を持てないの何故だろうか。そんなマスをターゲットにした記事は週刊ダイヤモンドがやれば良い。少なくともバブルに乗るのはネットメディアがやる必要の無いことだし。それはソーシャルメディアの特性を理解している人間がやることではない。
2010年10月13日水曜日
DevQuiz
Google Developer Day に参加する資格があるかどうかを確認するための方法として Google がクイズを出してそれを元に参加資格を決めるという事をやったのだけど。たしかに Google 規模の会社になると、開発者向けのイベントだとしてもそうでない人が沢山紛れ込んでしまう問題はあるし、特に去年は Android を配ってしまった物だから、そういった物を期待する人達も出てくるので、クイズで基準を満たすユーザーだけを選ぶというのは間違ったことではないのだけど、問題なのはゲームとしてこのクイズを見たときにはっきり言ってこれクソゲーなんだよね…。
なにが問題かというと、ゲーム内のスコアと実際に出席の基準となるスコアが別にあって、尚且つゲームが終了しないと、その基準となるスコアが分からないと言う部分。確かに相手の手札が見えないのはスリリングではあるのだけど、パックマンの問題のようにスコアが青天井の場合、ゲーム内における目標の設定が出来なくなるので、ゲームというより作業に近くなる。そこまでの忠誠心を Google が求めているのなら、それは正しいのだが…。もうひとつの問題としてゲーム中に得点補正の効果が分からないという問題がある。このクイズの特徴として正解者が多い問題はプライオリティーが下がって出席基準のスコアが下がるしかけに成っているのだけど、自分が回答したせいで、どれだけのユーザーにダメージを与えているのか分からないから、他の問題を解く理由が無いのだけど、ゲーム内のスコアと実際に出席の基準となるスコアが別になっているせいで、すべてのゲームを解く必要があるように感じてしまう。結局本来このゲームのプレーヤーは自分対他のGDD参加者なはずなのに、ゲームデザインがおかしいせいで、自分対Googleになってしまっていて、本当だったらもっとソーシャルなゲームになるはずだったのが、運営の下手さもあって、理不尽なゲームマスターが仕切るゲームになってしまった。
借りぐらしのアリエッティ
正直にいうと、初監督作品という要素を引いても褒められた内容の映画では無いと思っていて。なんでつまらないかと考えたときに、未回収の伏線だとかオチの弱さと言った、シナリオ面が弱いのかなと思っていたのだけど、よくよく考えるうちにこれは単純に映画を完成させる事で精一杯で、シナリオの表層部分だけをなぞるだけで終わっている気がする。
この映画でひとつ特徴的なのがクライマックスの手前で、翔くんがアリエッティに自分の病気を告白する件で、アリエッティにひどく意地悪な事を言う。その内容が自然淘汰と言った環境に関する内容なので、宮崎駿のいつもの小言なのかと思うのだけど、実はこれってアリエッティが光なら翔くんは闇である事の暗喩なはずなんだよね。
というのも、この翔くんは心臓を患っているせいで自由に出歩くことができない、祖母の家という狭い空間だけが彼に取っての世界なんだけど、それとは対照的にアリエッティは自由に出歩いて借りをし、さらには外の世界に引っ越そうとまでしている。つまりアリエッティこそ、翔くんが理想とする自分なのだけど、劇中ではこの二人の関係が好意以上恋愛未満に終わってしまっていて、アリエッティの母親を助けるのも単にアリエッティにカッコいい所見せたいといった所で止まってしまっている。
でも本来彼がアリエッティを助けるのは、アリエッティの気を惹くためというより、自分がアリエッティの代わりにもっと言えば自分がアリエッティになる事が目的だからこそ、危険な事を進んでするわけであって、それは金田正太郎が鉄人28号の肩に乗って操っているのと同じ構図なんだけど、アリエッティと翔くんの対比が弱いから好き嫌いの話になってしまっているのが残念かな。
2010年9月13日月曜日
mixi のロートル感
mixiがソーシャルグラフプロバイダー宣言をした。ただ残念な事にその内容は自分達がソーシャルになれない事を公衆の面前で明らかにしたに過ぎない。例えば mixi チェックについて考えてみよう。自分のサイトページに mixi チェックを置く場合、ユーザーは自分のサイトを mixi に登録する必要がある。そんなバカな話があるだろうか? Facebook の Like ボタンはサイトを登録しなくても誰でも使うことができる。
さらにページに OpenGraph Type 属性を埋め込んでおけば、映画や音楽について扱ったページの場合自動的に、自分のプロフィールのお気に入りに追加してまでくれる。それに比べて mixi チェックはどうか?はてなスター再発明にすぎない。これの何処がソーシャルグラフなのだろうか、単にユーザーの趣味趣向を貯めこんでマネタイズするだけのマーケティンググラフなのではないか?
しかも溜め込んだソーシャルグラフを利用するための mixi Graph API に至っては法人にしか開放していない。これの何処がオープンなのか?イノベーションを恐れる物に出来るのは、狭い島に閉じこもるだけだ。
デジタルネイティブを優遇した発表会も、やっているのは結局旧態然とした提携発表、そんなのは身内の学芸会でやれば良い。自分たちがロートルである事を示しただけだし、だいたい TechWave のようなおじさん達を満足させるための学芸会にはウンザリなんだよ!!
2010年8月28日土曜日
20世紀少年
その欠陥はなにかというと、ともだちの正体を話の中心に据えている部分で。これは連載漫画のように不定期に続く物の場合には、演出として有効なんだけど、映画の場合それを中心に据えると伝えたい事がぼけてしまう。例えば第3章のエンドロール後の10分くらいの映像だけで、言いたいことは言えるわけなんだけど、ともだちの正体を話の中心に据えたせいですごい遠回りを観客に強いているだけじゃなくて、本来描くべき、なぜ人々がともだちに熱狂し支持したのかという部分が弱くなっているので、相対的にともだちがよげんの書を使って何をしたかったのかが見えにくくなっている。
劇中でともだちはテロの予言を的中させて、人々の信頼を得ていくわけなんだけど、それ自分たちで地下鉄に毒ガスまいて予言が的中しましたと言うような物で、やっぱりそれだけで観客を納得させるには無理がある。だとすると劇中世界の中での人達の心情を描くべきではあるんだけど、1章が血の大晦日で終わって、2章がともだちが信頼を勝ち得た後から始まるので、ともだちが人心を掌握していくプロセスが見えてこない。3章でユキジが科学特捜隊を「子どもじみた真似」と言うのだけど、ともだちが行うすべての事が子供じみてみえるし、あの世界にいる人達全員が幼稚に見えてしまう。
その幼稚さに拍車をかけているのがギャグの部分で、例えばオッチョが塀を越えるシーンや、ケンジが偽造手形を使うシーンって、これ本当は笑いのポイントなはずなんだけど、作り手がギャグとして作ってないし、出てくる人間たちが幼稚にしかみえないので、笑えなくなっている。これが全体のメリハリを無くしてしまっている気がする。
来週の楽しみが増えるという点において原作でのともだちの正体探しという話は王道だとは思う。ただそれが単体の作品ないしは3部作でひとつの作品を構成する映画の場合、それはメリハリの無いタダの答え合わせになってしまう。折角あれだけのお金をかけて作るのであれば映画の特性に合ったともだちやそれを支持する人達の内面をもっと描いて欲しかったかな。
2010年8月26日木曜日
インセプション
SF的な部分で一番問題だなーと思ったのは、夢の中に入る仕組みや、劇中で渡辺謙やキリアン・マーフィーが受けている夢の防衛方法についての説明が無いから、すこし唐突に見えてしまう(夢という設定なら、騎士や魔法使いが出てきてもおかしくないのに、みんな武装警備員だ)。劇中の設定では夢を共有する事で侵入するというふうに説明されているのだけど、じゃあそれ誰の夢なの?という疑問は常に付きまとうんだよね。ユング的な何かと思えば説明はつかないことはないが・・・。
ただ今回書きたいのはそんな事ではなく、この映画のラストシーンについて。この映画はラストの直前で冒頭のシーンに戻るというスタイルを取っているのだけど、冒頭のシーンの続きを一切カットした形でラストシーンに入る。この続きの部分というのはそれまでのサスペンスのクライマックスに当たるシーンなわけだけど、ここをバッサリとカットすることでラストシーンで観客にある疑問を抱かせる。それは主人公が実は未だに現実から帰還せずに夢のなかに居るのでは無いかと?
しかし、この映画において重要なのは主人公が夢から帰還したの、それとも未帰還なのかではなく、観客ひとりひとりが、それをどう捉えるのかの方が重要で。というのも、中盤で現実より夢を選んでいる人達が出てくる。これは押井守がビューティフルドリーマーやアヴァロンなんかでやってきた「現実ではなくても、それがその人にとって気持ち良いものならば、それはその人にとっては現実ではないのか?」というテーマと同じ問題をインセプションでも扱っていて、家族と再会するという幸福なラストシーンを夢と見るか現実とみるかは、すなわち夢と現実のどちらを幸福とみるかを観客に選ばせているのと同じ事をしている。あくまでも観客の内面を暴く以上、主人公が帰還したかどうか議論するのは不毛なような気がする。
2010年6月17日木曜日
デートに最適アイアンマン2
少し前にアイアンマン2をみた、映画としての感想は、イマイチと言うか前作で抱えていた問題は今作にも引き継がれていて、不満もそれなりにあるのだけど、よくできた映画で、特にこの映画はデートで見るのに最適な映画なのではないだろうか。
2010年6月16日水曜日
E3 2010 雑感
Microsoft
2010年4月30日金曜日
第9地区
1982年に南アフリカのヨハネスブルク上空に突如UFOが現れて、それ以来エビと呼ばれるエイリアンが住み着いてしまった架空の現在が舞台の映画で、主人公のヴィカスは住み着いたエイリアンたちを強制収容施設にエイリアンたちを騙して半ば強制的に移住させる仕事をしているのだけど、ひょんな事から自分もエイリアンになってしまい、人間に戻る事と引き換えに母星に戻ろうとするエビを助けた結果、人間たちと戦う羽目になるという内容で、ここだけ聞くとアバターにプロットが似ているのだけど、アバターは映像で観客を引きつけるのだけど、第9地区はサスペンスで観客を引きつける。
というのも、この映画はフェイクドキュメンタリーとして作られていて、エイリアンの強制移住の様子を取材していたら、ヴィカスが引き起こした事件に遭遇したと言う形になっていて、話の序盤はヴィカスの仕事ぶりを描いて、エビが猫缶に目がない様子(猫缶詐欺まである)とか、「俺に触覚を向けるな!!」とか笑えるシーンが続くのだけど、突然シーンが変わって"まさかヴィカスがあんな事に"というシリアスな物になる。
そこでヴィカスに何があったのかと思うわけだけど、ヴィカスは徐々にエビになって行くという病気というかウィルスに感染した事に気づく。そこから話は主人公がエビになる前に人間に戻れるのかと言う話に展開していく。しかも本来エイリアンしか使うことの出来ない兵器を使えるようになってしまった為に、その能力を欲しがる MNU (主人公が務めている企業でもある) という軍事企業や、エイリアンを食べるとその能力を手に入れる事が出来ると信じているナイジェリア人のギャング集団につけ狙われるという展開に進んでいく。
と逃げているうちに、クリストファーというエイリアンが主人公を人間に戻す方法があると教えられ、そのためにクリストファーと MNU へ襲撃したりと、アクションシーンが展開されるのだけど、MNU へ襲撃したときに、クリストファーが人体実験で殺された仲間の死体を見つけて銃弾が飛び交う中、立ち尽くすシーンがあって、それまで文化レベルの低い野蛮な存在として描かれていたエビが、非常に人格的で決して文化レベルが低い存在では無い事に気付かされる、こいつら見た目エビだけど俺たち人間と同じで喜怒哀楽をもった存在である事に気付かされるんだよね。
この映画上手く作られているのは、この部分で(エイリアンを人種と言うかは別として)人種による空間的差別を序盤で必要悪として描いていくのだけど、途中で差別される側の視点で描かれて、この視点の切り替えがすごくスムーズで脚本の妙を感じる。
ただ、この映画全体的にアクションシーンが雑というか、映像的にはカッコいいのだけど、エイリアンのロボット兵器に車で体当たりしたりとマッドマックスとかのオーストラリア映画なんかにありがちな雑さなんだよね。これはスプラッター描写にも同じ事が言えて、エイリアンの武器で人間が木っ端微塵になる描写があるのだけど、細かくなりすぎてスプラッター描写じゃ無くなっているんだよね。まあ腕もげとかはあるんだけど・・・スプラッターという程でもないし。そういう点ではアクションシーンは期待はずれかな。エイリアンの武器とかのデザインは80年代調のアバターに比べるとより近代的ですね。
で、まあこの映画は南アフリカが舞台で劇中で隔離政策が扱われるので、アパルトヘイトを扱った映画ではあるのだけど、アパルトヘイトを単なる黒人差別という認識で見ると、映画の内容を見誤る。いちおう序盤で”ヨハネスブルクの200Km先に隔離するので、もうエビを見ることはありません”というセリフが出てきて、アパルトヘイトの本質というのはそこなんだよね。つまり一般的に思われている黒人差別は理不尽な抑圧という文脈で語られるのだけど、そうじゃなくて、見たくないものを見なくて済むようにする。あるいは見せないようにするのが本質なわけで、そういう点でヴィカスという主人公は見たくないものを見ずにきたわけで、途中クリストファーの子どもが父親に「父さん僕たち母星に行くの?」と聞くとクリストファーは子どもに「いやここに行くんだよ」と強制収容所のパンフレットをみせて「ここは今住んでいるところ綺麗で良いところなんだ」言い聞かせるのだけど、それを見ていたヴィカスは自分が本当は何も見てなかった事に気づくんだよね。なので、アパルトヘイトを単なる人種差別と同列にみなすと少し違った印象の映画になる。アパルトヘイト関連で言うと仲間を助けるために地球から脱出するといのが”遠い夜明け”に似ているかもね。
2010年4月23日金曜日
けいおん!!
みんな大好きけいおんなんだけど、第二期の1話を見た時から、すこし嫌な予感をしはじめている。
このけいおんってアニメは平沢唯って女の子が軽音部に入るって話なのだけど、入ってからは基本的に話が進まないという特殊なアニメで、話が進まに事自体はレギュラードラマとしては定番なんだけど、けいおんが特殊なのは時間が進んでいく所で、ちゃんと進級するんだよね。基本的に部室でワーキャーやっているだけなので一年生のまま半永久的にやっていれば良いのだけど、このアニメは何故か進級してしまった。つまり何も起きないストーリードラマという不思議な構造になっている。
話が進めば登場人物が年をとるのは当然の話で、ドラえもんののび太やサザエさんのカツオのように、永遠と小学校に留年し続ける方が実は不自然ではあるのだけど、けいおんの場合時間軸が進むと、演奏が上手くならないといけないと言うジレンマがあって、それをやると今度はけいおんの魅力であるユルフワボンクラ空間が壊れてしまう。
というのも、じゃあなぜ平沢唯の演奏が上手くならないかというと、ようはティータイムばかりしているからなわけで、上手くなるにはけいおんの売りを止めないといけない、それを回避するには急に上手くならないと行けないのだけど、それをやるとドラゴンボールで言うところのインフラが起きてしまい、それ軽音じゃないよと言う次元に入ってしまう。そうなると落とし所が難しいのと、そもそも上手い演奏って音で聞かせて視聴者を納得させるのは難しくて、ビジュアルで魅せたハルヒの激奏とはそこが違う。
その状態で2クールやるのは無謀で、何処かでゴールを設定するか(例えば唯にとっては演奏するのが困難な楽曲を演奏するとか)、ウルトラCとして永遠に2年生をやるか・・・。CD売りたいとか作り手側の思惑が見え隠れする2クールなんだけど、息の長い作品にしたけらばレギュラードラマ化した方がいいんじゃないかなー?
のだめカンタービレ 最終楽章 前編 特別版
テレビ用の短縮版ですね。話としてはマルレで常任指揮者として奮闘する千秋の物語。
まあドラマファン向けの映画で、単体作品のストーリーとして何を描きたいのかがよく分からなくて。もちろんそれは映画が前後編という形をとっているせいもあるのだけど、やっぱ原作をなぞっているだけに見えるんだよね。で内容的にも先行して作られたアニメ版に比べるとドラマ版と同じでギャグの部分が過剰というか、マンガやアニメなら許されるギャグを実写でやられるのは、やっぱ辛い。
あと途中で外人が日本語話す事に関する注釈がでるんだけど、あれいる?シュトレーゼマンを竹中直人がやっている時点でそこはクリアされているだろって気もしたり、粗を探したくなる映画ではある。
ただアニメ版と違って音楽パートは良くて。マルレで始めて指揮をしたときに、オケがボロボロの描写があるのだけど、アニメだとただボレロを流すだけだったのが、実写版ではちゃんと演奏されていてヘタさ具合が出ていたり、映像と音楽を組み合わせているのでそこはいい。というか、この話って千秋が成長する話というより、音楽が人を成長させる物語なんだろうな。実際音楽が流れていないシーンの登場人物たちは操者のいない人形のようなんだけど、音楽が流れ出した途端に活き活きと動き出すんだよね。終盤で千秋が指揮をしながらピアノを演奏するシーンがあってコレは後編への伏線というかストーリーの推進力になっていくのだけど、このシーンでの躍動感は素晴らしい。ただ竹中直人に意味を説明させたら駄目だよな。
そういった意味でいえば、のだめの実写化という点では成功している映画で、マルレオケの楽団員の子どもを預かる件は音楽が主人公を成長させた様子を描いていて良いね。
まあ原作を始めドラマやアニメを見てなくても成立するのか?というと難しいというか無理なので単体の作品としては難有りなんだけど、だからといって否定はできない映画ですね。
2010年4月19日月曜日
ケータイ小説家 北川悦吏子
北川悦吏子の復帰作として、また Twitter ドラマとして注目された"素直になれなくて"なんだけど、正直ガッカリというか残念ですね。
2010年4月6日火曜日
prefwindow を Chrome に移植してみた
Chrome の拡張機能は設定を localStorage を使用して保存する。HTML5 の機能を使っているとはいえ、やっている事自体は Firefox で言うところの nsIPrefBranch とかわらない。ただいちいち、設定の値を取り出してフォームを弄るのは面倒くさいので Firefox の prefwindow に似た仕組みを Chrome に移植してみた。
仕組みは簡単でオプションページの HTML に preference という要素を追加しておき、その要素の name 属性に設定の名前を書いておく。次にその設定に関連する input 要素の preference 属性に設定の名前を書くことで、設定とフォームが紐付けされる。たったそれだけの手間でオプションページのためにコードを書く必要が無くなる。
今はまだラジオボタンにしか対応してないので、スクリプト単体では公開しないのだけど、ブックマーク検索の ver 0.5.6 以降にバンドルされます。
2010年4月2日金曜日
ソラノヲト
2010年2月20日土曜日
なぜ Buzz は嫌われるのか?
これだけ期待されてデビューされたはずなのに、気付けば Google Buzz はガラクタになっている。考えるに三つの要素が関係しいてる。
2010年2月19日金曜日
ポメラとノートを比較してみた
| メーカー | キングジム | コクヨ |
| モデル名 | ポメラ DM5 | キャンパスノート ノ-3A |
| 発売日 | 2010年03月09日 | 1975年08月 |
| 表示文字数 | 26字×17行(12×12ドット表示時) | 24字×30行(文字数は平均的な目安) |
| 最大保存文字数 | 8000文字 × 6 (microSDHCカードで拡張可能) | 21600文字 (大容量モデルの ノ-10A も有り) |
| 入力デバイス | 折りたたみ式QWERTY配列キーボード | えんぴつ (別売り) |
| かな漢字変換 | ATOK | あなた自身 |
| バッテリー | 25時間(単四アルカリ電池2本使用) | 無限 |
| 価格 | 20,790円 | 157円 |