2010年8月28日土曜日

20世紀少年

漫画原作の答え合わせ映画としては悪くないのだけど、映画として致命的な欠陥を抱えたまま終わっている。

その欠陥はなにかというと、ともだちの正体を話の中心に据えている部分で。これは連載漫画のように不定期に続く物の場合には、演出として有効なんだけど、映画の場合それを中心に据えると伝えたい事がぼけてしまう。例えば第3章のエンドロール後の10分くらいの映像だけで、言いたいことは言えるわけなんだけど、ともだちの正体を話の中心に据えたせいですごい遠回りを観客に強いているだけじゃなくて、本来描くべき、なぜ人々がともだちに熱狂し支持したのかという部分が弱くなっているので、相対的にともだちがよげんの書を使って何をしたかったのかが見えにくくなっている。

劇中でともだちはテロの予言を的中させて、人々の信頼を得ていくわけなんだけど、それ自分たちで地下鉄に毒ガスまいて予言が的中しましたと言うような物で、やっぱりそれだけで観客を納得させるには無理がある。だとすると劇中世界の中での人達の心情を描くべきではあるんだけど、1章が血の大晦日で終わって、2章がともだちが信頼を勝ち得た後から始まるので、ともだちが人心を掌握していくプロセスが見えてこない。3章でユキジが科学特捜隊を「子どもじみた真似」と言うのだけど、ともだちが行うすべての事が子供じみてみえるし、あの世界にいる人達全員が幼稚に見えてしまう。

その幼稚さに拍車をかけているのがギャグの部分で、例えばオッチョが塀を越えるシーンや、ケンジが偽造手形を使うシーンって、これ本当は笑いのポイントなはずなんだけど、作り手がギャグとして作ってないし、出てくる人間たちが幼稚にしかみえないので、笑えなくなっている。これが全体のメリハリを無くしてしまっている気がする。

来週の楽しみが増えるという点において原作でのともだちの正体探しという話は王道だとは思う。ただそれが単体の作品ないしは3部作でひとつの作品を構成する映画の場合、それはメリハリの無いタダの答え合わせになってしまう。折角あれだけのお金をかけて作るのであれば映画の特性に合ったともだちやそれを支持する人達の内面をもっと描いて欲しかったかな。

2010年8月26日木曜日

インセプション

インセプションを遅れ馳せながら見てきた。感想としてはサスペンスとしては1流だけどSFとしては2流という言ったところか。

SF的な部分で一番問題だなーと思ったのは、夢の中に入る仕組みや、劇中で渡辺謙やキリアン・マーフィーが受けている夢の防衛方法についての説明が無いから、すこし唐突に見えてしまう(夢という設定なら、騎士や魔法使いが出てきてもおかしくないのに、みんな武装警備員だ)。劇中の設定では夢を共有する事で侵入するというふうに説明されているのだけど、じゃあそれ誰の夢なの?という疑問は常に付きまとうんだよね。ユング的な何かと思えば説明はつかないことはないが・・・。

ただ今回書きたいのはそんな事ではなく、この映画のラストシーンについて。この映画はラストの直前で冒頭のシーンに戻るというスタイルを取っているのだけど、冒頭のシーンの続きを一切カットした形でラストシーンに入る。この続きの部分というのはそれまでのサスペンスのクライマックスに当たるシーンなわけだけど、ここをバッサリとカットすることでラストシーンで観客にある疑問を抱かせる。それは主人公が実は未だに現実から帰還せずに夢のなかに居るのでは無いかと?

しかし、この映画において重要なのは主人公が夢から帰還したの、それとも未帰還なのかではなく、観客ひとりひとりが、それをどう捉えるのかの方が重要で。というのも、中盤で現実より夢を選んでいる人達が出てくる。これは押井守がビューティフルドリーマーやアヴァロンなんかでやってきた「現実ではなくても、それがその人にとって気持ち良いものならば、それはその人にとっては現実ではないのか?」というテーマと同じ問題をインセプションでも扱っていて、家族と再会するという幸福なラストシーンを夢と見るか現実とみるかは、すなわち夢と現実のどちらを幸福とみるかを観客に選ばせているのと同じ事をしている。あくまでも観客の内面を暴く以上、主人公が帰還したかどうか議論するのは不毛なような気がする。