2010年4月30日金曜日

第9地区

1982年に南アフリカのヨハネスブルク上空に突如UFOが現れて、それ以来エビと呼ばれるエイリアンが住み着いてしまった架空の現在が舞台の映画で、主人公のヴィカスは住み着いたエイリアンたちを強制収容施設にエイリアンたちを騙して半ば強制的に移住させる仕事をしているのだけど、ひょんな事から自分もエイリアンになってしまい、人間に戻る事と引き換えに母星に戻ろうとするエビを助けた結果、人間たちと戦う羽目になるという内容で、ここだけ聞くとアバターにプロットが似ているのだけど、アバターは映像で観客を引きつけるのだけど、第9地区はサスペンスで観客を引きつける。

というのも、この映画はフェイクドキュメンタリーとして作られていて、エイリアンの強制移住の様子を取材していたら、ヴィカスが引き起こした事件に遭遇したと言う形になっていて、話の序盤はヴィカスの仕事ぶりを描いて、エビが猫缶に目がない様子(猫缶詐欺まである)とか、「俺に触覚を向けるな!!」とか笑えるシーンが続くのだけど、突然シーンが変わって"まさかヴィカスがあんな事に"というシリアスな物になる。

そこでヴィカスに何があったのかと思うわけだけど、ヴィカスは徐々にエビになって行くという病気というかウィルスに感染した事に気づく。そこから話は主人公がエビになる前に人間に戻れるのかと言う話に展開していく。しかも本来エイリアンしか使うことの出来ない兵器を使えるようになってしまった為に、その能力を欲しがる MNU (主人公が務めている企業でもある) という軍事企業や、エイリアンを食べるとその能力を手に入れる事が出来ると信じているナイジェリア人のギャング集団につけ狙われるという展開に進んでいく。

と逃げているうちに、クリストファーというエイリアンが主人公を人間に戻す方法があると教えられ、そのためにクリストファーと MNU へ襲撃したりと、アクションシーンが展開されるのだけど、MNU へ襲撃したときに、クリストファーが人体実験で殺された仲間の死体を見つけて銃弾が飛び交う中、立ち尽くすシーンがあって、それまで文化レベルの低い野蛮な存在として描かれていたエビが、非常に人格的で決して文化レベルが低い存在では無い事に気付かされる、こいつら見た目エビだけど俺たち人間と同じで喜怒哀楽をもった存在である事に気付かされるんだよね。

この映画上手く作られているのは、この部分で(エイリアンを人種と言うかは別として)人種による空間的差別を序盤で必要悪として描いていくのだけど、途中で差別される側の視点で描かれて、この視点の切り替えがすごくスムーズで脚本の妙を感じる。

ただ、この映画全体的にアクションシーンが雑というか、映像的にはカッコいいのだけど、エイリアンのロボット兵器に車で体当たりしたりとマッドマックスとかのオーストラリア映画なんかにありがちな雑さなんだよね。これはスプラッター描写にも同じ事が言えて、エイリアンの武器で人間が木っ端微塵になる描写があるのだけど、細かくなりすぎてスプラッター描写じゃ無くなっているんだよね。まあ腕もげとかはあるんだけど・・・スプラッターという程でもないし。そういう点ではアクションシーンは期待はずれかな。エイリアンの武器とかのデザインは80年代調のアバターに比べるとより近代的ですね。

で、まあこの映画は南アフリカが舞台で劇中で隔離政策が扱われるので、アパルトヘイトを扱った映画ではあるのだけど、アパルトヘイトを単なる黒人差別という認識で見ると、映画の内容を見誤る。いちおう序盤で”ヨハネスブルクの200Km先に隔離するので、もうエビを見ることはありません”というセリフが出てきて、アパルトヘイトの本質というのはそこなんだよね。つまり一般的に思われている黒人差別は理不尽な抑圧という文脈で語られるのだけど、そうじゃなくて、見たくないものを見なくて済むようにする。あるいは見せないようにするのが本質なわけで、そういう点でヴィカスという主人公は見たくないものを見ずにきたわけで、途中クリストファーの子どもが父親に「父さん僕たち母星に行くの?」と聞くとクリストファーは子どもに「いやここに行くんだよ」と強制収容所のパンフレットをみせて「ここは今住んでいるところ綺麗で良いところなんだ」言い聞かせるのだけど、それを見ていたヴィカスは自分が本当は何も見てなかった事に気づくんだよね。なので、アパルトヘイトを単なる人種差別と同列にみなすと少し違った印象の映画になる。アパルトヘイト関連で言うと仲間を助けるために地球から脱出するといのが”遠い夜明け”に似ているかもね。

2010年4月23日金曜日

けいおん!!

みんな大好きけいおんなんだけど、第二期の1話を見た時から、すこし嫌な予感をしはじめている。

このけいおんってアニメは平沢唯って女の子が軽音部に入るって話なのだけど、入ってからは基本的に話が進まないという特殊なアニメで、話が進まに事自体はレギュラードラマとしては定番なんだけど、けいおんが特殊なのは時間が進んでいく所で、ちゃんと進級するんだよね。基本的に部室でワーキャーやっているだけなので一年生のまま半永久的にやっていれば良いのだけど、このアニメは何故か進級してしまった。つまり何も起きないストーリードラマという不思議な構造になっている。

話が進めば登場人物が年をとるのは当然の話で、ドラえもんののび太やサザエさんのカツオのように、永遠と小学校に留年し続ける方が実は不自然ではあるのだけど、けいおんの場合時間軸が進むと、演奏が上手くならないといけないと言うジレンマがあって、それをやると今度はけいおんの魅力であるユルフワボンクラ空間が壊れてしまう。

というのも、じゃあなぜ平沢唯の演奏が上手くならないかというと、ようはティータイムばかりしているからなわけで、上手くなるにはけいおんの売りを止めないといけない、それを回避するには急に上手くならないと行けないのだけど、それをやるとドラゴンボールで言うところのインフラが起きてしまい、それ軽音じゃないよと言う次元に入ってしまう。そうなると落とし所が難しいのと、そもそも上手い演奏って音で聞かせて視聴者を納得させるのは難しくて、ビジュアルで魅せたハルヒの激奏とはそこが違う。

その状態で2クールやるのは無謀で、何処かでゴールを設定するか(例えば唯にとっては演奏するのが困難な楽曲を演奏するとか)、ウルトラCとして永遠に2年生をやるか・・・。CD売りたいとか作り手側の思惑が見え隠れする2クールなんだけど、息の長い作品にしたけらばレギュラードラマ化した方がいいんじゃないかなー?

のだめカンタービレ 最終楽章 前編 特別版

テレビ用の短縮版ですね。話としてはマルレで常任指揮者として奮闘する千秋の物語。

まあドラマファン向けの映画で、単体作品のストーリーとして何を描きたいのかがよく分からなくて。もちろんそれは映画が前後編という形をとっているせいもあるのだけど、やっぱ原作をなぞっているだけに見えるんだよね。で内容的にも先行して作られたアニメ版に比べるとドラマ版と同じでギャグの部分が過剰というか、マンガやアニメなら許されるギャグを実写でやられるのは、やっぱ辛い。

あと途中で外人が日本語話す事に関する注釈がでるんだけど、あれいる?シュトレーゼマンを竹中直人がやっている時点でそこはクリアされているだろって気もしたり、粗を探したくなる映画ではある。

ただアニメ版と違って音楽パートは良くて。マルレで始めて指揮をしたときに、オケがボロボロの描写があるのだけど、アニメだとただボレロを流すだけだったのが、実写版ではちゃんと演奏されていてヘタさ具合が出ていたり、映像と音楽を組み合わせているのでそこはいい。というか、この話って千秋が成長する話というより、音楽が人を成長させる物語なんだろうな。実際音楽が流れていないシーンの登場人物たちは操者のいない人形のようなんだけど、音楽が流れ出した途端に活き活きと動き出すんだよね。終盤で千秋が指揮をしながらピアノを演奏するシーンがあってコレは後編への伏線というかストーリーの推進力になっていくのだけど、このシーンでの躍動感は素晴らしい。ただ竹中直人に意味を説明させたら駄目だよな。

そういった意味でいえば、のだめの実写化という点では成功している映画で、マルレオケの楽団員の子どもを預かる件は音楽が主人公を成長させた様子を描いていて良いね。

まあ原作を始めドラマやアニメを見てなくても成立するのか?というと難しいというか無理なので単体の作品としては難有りなんだけど、だからといって否定はできない映画ですね。

2010年4月19日月曜日

ケータイ小説家 北川悦吏子

北川悦吏子の復帰作として、また Twitter ドラマとして注目された"素直になれなくて"なんだけど、正直ガッカリというか残念ですね。

それは単にドラマ内の Twitter の描写がトンデモだからという事ではなくて、このドラマはケータイ小説と同じ構造で、五人の群像劇にはなっているのだけど、登場人物全員が負の要素を背負わされていて、五人揃うと負の幕の内弁当みたいな事になる。ケータイ小説同様、このドラマには普通の人が誰もいない。それは安易なアイコンとしての舞台の為に街の空気感を一切感じる事のできない渋谷(=若者の街)や、Twitter の使い方といった、設定に対する無知さもケータイ小説的で、渋谷という現実の舞台で人と人とのコミュニケーションを扱っているのに完全な異空間を形成してしまっている。

もうひとつの問題としてキャラクターの設定だとかセリフが古いくて、感覚的には 95年から96年あたりで止まっている印象を受ける。例えばヒロインが教員を目指す動機が金八先生だったり、セリフにしても関めぐみが終盤で Twitter やる理由を "みんな繋がっていたいんだよね"と自己分析する。これに似た話しとしてエヴァンゲリオンに"鳴らない電話"というのがあるのだけど、そこでは携帯電話を持っているけど、誰からも着信がこない事で主人公が社会と繋がっていない様を表す描写がある、つまりエヴァが放映された95年とかだと”繋がる”という行為に意味があったのだけど、2010年の現在これだけ携帯やネットが発達し、繋がっている事その物よりも、どう繋がっているかがポイントになっているのに、繋がっているかどうかは時代錯誤的な気がしてしまう。

この時代錯誤感はギャグにも表れていて、ヒロインは受け持った授業でスピッツの歌詞を使用して、そのことを上司に怒られるシーンがある。まずスピッツを引き合いに出すのも時代を感じるのだが、そこでその上司「ブルドックなんて使って」というギャグを言う。このセンス自体が90年代中盤のオヤジギャグを真空パックしたしたような物で、余計に古さを感じてしまう。

総じて見て取れるのは、このドラマがケータイ小説的なファンタジーと、空気感だったり出てくる大人にいい奴がひとりもいないという一種の尾崎イズムに染まっていたりと感覚が90年代中盤で思考停止しているし、素直になれない事と嘘をつく事は全く違う事なはずなのに、このドラマでは同列に扱っているのはどうかと思う。

でまあ、これからの期待としては(正直おかしな Twitter 描写をがないと、ただつまらなくてゲンナリしてはいるのだけど)話の展開上なぜ嘘を付く必要があるのかを明かす必要が出てくるだろうから、その時に”寂しい”とか”認められたい”とか自己承認的な動機以外の理由を提示出来るのかと、あと一番重要なのは誰も死なない事。このふたつがクリアされなかったら、雫井脩介が書いたクリーズドノート的作品という位置づけ以外難しいかな。

2010年4月6日火曜日

prefwindow を Chrome に移植してみた

Chrome の拡張機能は設定を localStorage を使用して保存する。HTML5 の機能を使っているとはいえ、やっている事自体は Firefox で言うところの nsIPrefBranch とかわらない。ただいちいち、設定の値を取り出してフォームを弄るのは面倒くさいので Firefox の prefwindow に似た仕組みを Chrome に移植してみた。

仕組みは簡単でオプションページの HTML  に 
preference という要素を追加しておき、その要素の name 属性に設定の名前を書いておく。次にその設定に関連する input 要素の preference 属性に設定の名前を書くことで、設定とフォームが紐付けされる。たったそれだけの手間でオプションページのためにコードを書く必要が無くなる。

今はまだラジオボタンにしか対応してないので、スクリプト単体では公開しないのだけど、ブックマーク検索の ver 0.5.6 以降にバンドルされます。

2010年4月2日金曜日

ソラノヲト

このアニメは簡単にいうと、永遠のモラトリアムを享受している主人公達が、否応無く戦争に巻き込まれていく話で、実際休戦下の砦が舞台にも関わらず、明確な敵の存在が皆無なんだよね。これってパトレイバーでの特車二課の描かれ方に似ていて、あれに出てくる主人公達も普段は東京湾の埋立地という社会から隔離された環境で、のんべんだらりと生活していくのだけど、一度事件が起きると社会と関わりを持たざるを得なくなる。パトレイバーの場合はそこでキャラクター達のギャップが引き起こすドタバタが面白いわけだど。基本的にソラノヲトも最初の10話は終わらない夏休みであって、ラスト2話で強制的に外部に関わる事を強制される(戦争に巻き込まれる)という話。

ただこの話何点か問題があって、一番問題なのは戦争描写の部分で、11話で好戦的な軍人が出てくるのだけど、この軍人の動機付けが「戦争が技術を進歩させる」的な物で、それって軍人の動機じゃなくて、マッドサイエンティストの発想だし、この軍人はさんざん冷酷キャラの位置付け描かれているのに、民間人に銃を向けないんだよね。だからただの口だけ番長になってしまっていて、ここが弱いせいで戦争と言う行為が頭のおかしな人達がやる物だよね的な酷く矮小化されてしまっているんだよね。

もう1つの問題はリオの描き方で、リオは10話で砦から離れるのだけど、最終話のラストで砦戻ってきちゃうんだよね。まあこれは続編作りたいからとか色々な思惑を汲み取れなくも無いのだけど、それをやるのであればやっぱり、リオを主人公にすえるか、暗喩で終わらせないとダメなんじゃ無いかと思う。