2010年11月5日金曜日

TechWave について書いておく

TechWave の批判記事を書くと編集長の湯川氏に BAN されるらしいので、同じく Twitter の不具合なのか BAN されているぽい身として、ここいらで以前から思っていた問題点を書いておく。

TechWave がブログメディアとして基本的に問題あると思うのは、記事の内容が他サイトのコピペであるという部分で、中には本来 TechWave と競合関係にあるはずの TechCrunch の記事を情報源にしている。もちろん IT 関係の出来事はアメリカが中心になるので、他メディアの記事を情報ソースにするのは致し方ない事なのだが、それにしもて TechWave の独自の視点がすべて "蛇足:オレはこう思う" という記事末尾のワンコーナーしかない。つまり TechWave で述べられる意見や考えは、すべて記事執筆者の個人的な意見に過ぎないわけで、TechWave としての意見は無いという事になる。

もちろん個人が主役というのなら、それも結構だが、だとするなら意見の偏りはどう説明するのだろうか?TechCrunch は iPhone をべた褒めする中でも Michael Arrington が iPhone から Android に乗り換える記事を掲載した。もし TechWave が本当にソーシャル思考であるなら、執筆者全員が電子書籍やソーシャルといったバブリーな記事に偏っているのはどういう事なのだろうか?そこに疑問を差し挟む視点を持てないの何故だろうか。そんなマスをターゲットにした記事は週刊ダイヤモンドがやれば良い。少なくともバブルに乗るのはネットメディアがやる必要の無いことだし。それはソーシャルメディアの特性を理解している人間がやることではない。

2010年10月13日水曜日

DevQuiz

Google Developer Day に参加する資格があるかどうかを確認するための方法として Google がクイズを出してそれを元に参加資格を決めるという事をやったのだけど。たしかに Google 規模の会社になると、開発者向けのイベントだとしてもそうでない人が沢山紛れ込んでしまう問題はあるし、特に去年は Android を配ってしまった物だから、そういった物を期待する人達も出てくるので、クイズで基準を満たすユーザーだけを選ぶというのは間違ったことではないのだけど、問題なのはゲームとしてこのクイズを見たときにはっきり言ってこれクソゲーなんだよね…。

なにが問題かというと、ゲーム内のスコアと実際に出席の基準となるスコアが別にあって、尚且つゲームが終了しないと、その基準となるスコアが分からないと言う部分。確かに相手の手札が見えないのはスリリングではあるのだけど、パックマンの問題のようにスコアが青天井の場合、ゲーム内における目標の設定が出来なくなるので、ゲームというより作業に近くなる。そこまでの忠誠心を Google が求めているのなら、それは正しいのだが…。もうひとつの問題としてゲーム中に得点補正の効果が分からないという問題がある。このクイズの特徴として正解者が多い問題はプライオリティーが下がって出席基準のスコアが下がるしかけに成っているのだけど、自分が回答したせいで、どれだけのユーザーにダメージを与えているのか分からないから、他の問題を解く理由が無いのだけど、ゲーム内のスコアと実際に出席の基準となるスコアが別になっているせいで、すべてのゲームを解く必要があるように感じてしまう。結局本来このゲームのプレーヤーは自分対他のGDD参加者なはずなのに、ゲームデザインがおかしいせいで、自分対Googleになってしまっていて、本当だったらもっとソーシャルなゲームになるはずだったのが、運営の下手さもあって、理不尽なゲームマスターが仕切るゲームになってしまった。

借りぐらしのアリエッティ

正直にいうと、初監督作品という要素を引いても褒められた内容の映画では無いと思っていて。なんでつまらないかと考えたときに、未回収の伏線だとかオチの弱さと言った、シナリオ面が弱いのかなと思っていたのだけど、よくよく考えるうちにこれは単純に映画を完成させる事で精一杯で、シナリオの表層部分だけをなぞるだけで終わっている気がする。

この映画でひとつ特徴的なのがクライマックスの手前で、翔くんがアリエッティに自分の病気を告白する件で、アリエッティにひどく意地悪な事を言う。その内容が自然淘汰と言った環境に関する内容なので、宮崎駿のいつもの小言なのかと思うのだけど、実はこれってアリエッティが光なら翔くんは闇である事の暗喩なはずなんだよね。

というのも、この翔くんは心臓を患っているせいで自由に出歩くことができない、祖母の家という狭い空間だけが彼に取っての世界なんだけど、それとは対照的にアリエッティは自由に出歩いて借りをし、さらには外の世界に引っ越そうとまでしている。つまりアリエッティこそ、翔くんが理想とする自分なのだけど、劇中ではこの二人の関係が好意以上恋愛未満に終わってしまっていて、アリエッティの母親を助けるのも単にアリエッティにカッコいい所見せたいといった所で止まってしまっている。

でも本来彼がアリエッティを助けるのは、アリエッティの気を惹くためというより、自分がアリエッティの代わりにもっと言えば自分がアリエッティになる事が目的だからこそ、危険な事を進んでするわけであって、それは金田正太郎が鉄人28号の肩に乗って操っているのと同じ構図なんだけど、アリエッティと翔くんの対比が弱いから好き嫌いの話になってしまっているのが残念かな。

2010年9月13日月曜日

mixi のロートル感

mixiがソーシャルグラフプロバイダー宣言をした。ただ残念な事にその内容は自分達がソーシャルになれない事を公衆の面前で明らかにしたに過ぎない。例えば mixi チェックについて考えてみよう。自分のサイトページに mixi チェックを置く場合、ユーザーは自分のサイトを mixi に登録する必要がある。そんなバカな話があるだろうか? Facebook の Like ボタンはサイトを登録しなくても誰でも使うことができる。

さらにページに OpenGraph Type 属性を埋め込んでおけば、映画や音楽について扱ったページの場合自動的に、自分のプロフィールのお気に入りに追加してまでくれる。それに比べて mixi チェックはどうか?はてなスター再発明にすぎない。これの何処がソーシャルグラフなのだろうか、単にユーザーの趣味趣向を貯めこんでマネタイズするだけのマーケティンググラフなのではないか?

しかも溜め込んだソーシャルグラフを利用するための mixi Graph API に至っては法人にしか開放していない。これの何処がオープンなのか?イノベーションを恐れる物に出来るのは、狭い島に閉じこもるだけだ。

デジタルネイティブを優遇した発表会も、やっているのは結局旧態然とした提携発表、そんなのは身内の学芸会でやれば良い。自分たちがロートルである事を示しただけだし、だいたい TechWave のようなおじさん達を満足させるための学芸会にはウンザリなんだよ!!

2010年8月28日土曜日

20世紀少年

漫画原作の答え合わせ映画としては悪くないのだけど、映画として致命的な欠陥を抱えたまま終わっている。

その欠陥はなにかというと、ともだちの正体を話の中心に据えている部分で。これは連載漫画のように不定期に続く物の場合には、演出として有効なんだけど、映画の場合それを中心に据えると伝えたい事がぼけてしまう。例えば第3章のエンドロール後の10分くらいの映像だけで、言いたいことは言えるわけなんだけど、ともだちの正体を話の中心に据えたせいですごい遠回りを観客に強いているだけじゃなくて、本来描くべき、なぜ人々がともだちに熱狂し支持したのかという部分が弱くなっているので、相対的にともだちがよげんの書を使って何をしたかったのかが見えにくくなっている。

劇中でともだちはテロの予言を的中させて、人々の信頼を得ていくわけなんだけど、それ自分たちで地下鉄に毒ガスまいて予言が的中しましたと言うような物で、やっぱりそれだけで観客を納得させるには無理がある。だとすると劇中世界の中での人達の心情を描くべきではあるんだけど、1章が血の大晦日で終わって、2章がともだちが信頼を勝ち得た後から始まるので、ともだちが人心を掌握していくプロセスが見えてこない。3章でユキジが科学特捜隊を「子どもじみた真似」と言うのだけど、ともだちが行うすべての事が子供じみてみえるし、あの世界にいる人達全員が幼稚に見えてしまう。

その幼稚さに拍車をかけているのがギャグの部分で、例えばオッチョが塀を越えるシーンや、ケンジが偽造手形を使うシーンって、これ本当は笑いのポイントなはずなんだけど、作り手がギャグとして作ってないし、出てくる人間たちが幼稚にしかみえないので、笑えなくなっている。これが全体のメリハリを無くしてしまっている気がする。

来週の楽しみが増えるという点において原作でのともだちの正体探しという話は王道だとは思う。ただそれが単体の作品ないしは3部作でひとつの作品を構成する映画の場合、それはメリハリの無いタダの答え合わせになってしまう。折角あれだけのお金をかけて作るのであれば映画の特性に合ったともだちやそれを支持する人達の内面をもっと描いて欲しかったかな。

2010年8月26日木曜日

インセプション

インセプションを遅れ馳せながら見てきた。感想としてはサスペンスとしては1流だけどSFとしては2流という言ったところか。

SF的な部分で一番問題だなーと思ったのは、夢の中に入る仕組みや、劇中で渡辺謙やキリアン・マーフィーが受けている夢の防衛方法についての説明が無いから、すこし唐突に見えてしまう(夢という設定なら、騎士や魔法使いが出てきてもおかしくないのに、みんな武装警備員だ)。劇中の設定では夢を共有する事で侵入するというふうに説明されているのだけど、じゃあそれ誰の夢なの?という疑問は常に付きまとうんだよね。ユング的な何かと思えば説明はつかないことはないが・・・。

ただ今回書きたいのはそんな事ではなく、この映画のラストシーンについて。この映画はラストの直前で冒頭のシーンに戻るというスタイルを取っているのだけど、冒頭のシーンの続きを一切カットした形でラストシーンに入る。この続きの部分というのはそれまでのサスペンスのクライマックスに当たるシーンなわけだけど、ここをバッサリとカットすることでラストシーンで観客にある疑問を抱かせる。それは主人公が実は未だに現実から帰還せずに夢のなかに居るのでは無いかと?

しかし、この映画において重要なのは主人公が夢から帰還したの、それとも未帰還なのかではなく、観客ひとりひとりが、それをどう捉えるのかの方が重要で。というのも、中盤で現実より夢を選んでいる人達が出てくる。これは押井守がビューティフルドリーマーやアヴァロンなんかでやってきた「現実ではなくても、それがその人にとって気持ち良いものならば、それはその人にとっては現実ではないのか?」というテーマと同じ問題をインセプションでも扱っていて、家族と再会するという幸福なラストシーンを夢と見るか現実とみるかは、すなわち夢と現実のどちらを幸福とみるかを観客に選ばせているのと同じ事をしている。あくまでも観客の内面を暴く以上、主人公が帰還したかどうか議論するのは不毛なような気がする。

2010年6月17日木曜日

デートに最適アイアンマン2

少し前にアイアンマン2をみた、映画としての感想は、イマイチと言うか前作で抱えていた問題は今作にも引き継がれていて、不満もそれなりにあるのだけど、よくできた映画で、特にこの映画はデートで見るのに最適な映画なのではないだろうか。

というのもこの映画はアイアンマンというタイトルから、男の子が好きそうなロボット物変身ヒーローであるアイアンマンの話がメインと思われがちなのだけど、実はアイアンマンに変身する主人公トニースタークの話がメインで、トランスフォーマーみたいに次から次へと現れる敵をアイアンマンが倒して行くという話ではない。映画版アイアンマンは究極の勝ち組ダメ男であるトニースタークが秘書のペッパーに恋する過程で更生していくと言う、一種の恋愛映画の側面を持っていて、アイアンマンの戦闘シーンよりもそっちの方がメインの話になっている。

つまり男からするとアイアンマンの勇ましい姿にテンションを上げ、女は"アリー my Love"を見ているようなロバート・ダウニー・Jrとグウィネス・パルトローの恋愛にトキメけばいい、さらに一人もんはスカヨハのアクションを見て「俺もあの技かけられたい」と思ったり、ミッキー・ロークの男臭さに酔えば言い訳だし、子ども向けにも作ってあるので、実はこの映画誰も損をしないという作りになっている、それでいて面白い。もちろん全方位に向けて作られている映画というのは、第9地区やダークナイトのような社会問題を扱った映画と比較して底が浅いと切って捨てる事は簡単だし(個人的な不満点もたぶんそこに起因する物なので)手放しでは褒められないのは事実なんだけど、ここまで全方位に向けて作られた映画は珍しいと思う。

過去にもアメコミものでスパイダーマンが大ヒットしたのだけど、あの映画は男からみると主人公がウジウジしすぎで正直見ていてイライラするだけだし、トランスフォーマーはギャグが全部下ネタという事でどうしたものか・・・。その点を考えるとアイアンマン2は娯楽映画としてよく出来ている、前作を見ないと途中話が分からない箇所があるのでそこは問題かなと思ったのだけど、吹替版には本編前に前作のダイジェストが付いているし、字幕版でも公式サイトにある"アベンジャーズとは?"というページをみれば、その辺りの話の流れをフォローできるので、デートや家族でみるのに最適な映画としてオススメです。

2010年6月16日水曜日

E3 2010 雑感

Microsoft 

アメリカのコアゲーマーのハートはほぼ手中に収めている Xbox ではあるのだけど、その反面カジュアルゲーマーにはまったく訴求力を持っていないのが弱点と言われている。その穴を埋めるために為に投入されたのがモーションコントローラーであるKinect。これは秀逸なコントローラーで、Wiiや後述するPSMoveのようにリモコンを持つ必要が無い。テレビの前で手を動かすか、ボイスコマンドですべての操作を実行すれば良い。丁度スピルバーグのマイノリティ・リポートに登場したコンピューターのような感覚で操作できる。空中に浮かぶ透明なタッチパネルのようなコントローラーだ。しかもXBOXを経由してESPNの視聴もできる、もちろんボイスコマンドで試合に関する各種データを画面に表示することが出来るのだ。インターネット経由での動画配信はAppleTVやGoogleTVでも見れる。しかしKinectの素晴らしいところはリモコンやマウスにキーボードを必要としない所だ。これは実に素晴らしい。XBOXは自分たちの弱点を確実に潰しにかかっている。しかも革新的な技術でだ。

Nintendo
任天堂はゼルダの伝説の新作。これはモーションプラスをヒューチャーした物で正当な進化と行ったところ。7年ぶりに据え置き機に登場するカービィにドンキーコング。そして待望のゴールデンアイとソフト面で攻勢をかける反面Wiiのアップデートに関する話はなし。モデル末期感すら漂う。始めてお披露目になった3DSは成功を約束されたハードといえる。PSP並のグラフィックに裸眼で3D視聴可能なディスプレー。さらに3D映画の配信まで行われる。3Dのコモディティ化という点で成功を約束されたハードだ。すれ違い通信をハード側でサポートするなど使いかっての部分も確実に強化してきた。派手さはないけど、手堅く攻めてきた印象。

Sony
ソニーが最近力をいれる3Dがメイン。キルゾーン3など主要なタイトルは軒並み3Dに、そしてPS3で何故かずっと出てなかったPORTAL2とTwistedMetalが復活!。よりコアゲーマーに訴求するラインナップに。SonyのモーションコントローラーことMoveは微妙の一言。対応ソフトのソーサラーのデモは新しいゼルダをHD画質でやっている以上の中身じゃない、しかもソーサラーには宮本さんの魔法はかかっていないときた。結局Moveは今ある技術を寄せ集めて作ったという印象しか無い、つまりWiiリモコンよりはチョビっと賢いかもしれないが、Kinect程先進的でもない。もちろん先進性がないとしても、操作性上Wiiでしか出来なかったようなゲームも遊ぶことが出来ると言う点では(バイオハザードDCのように)必要なハードではあるが、これが新しい体験を生み出すようには思えない。それとPSPが壊滅的というか、完全に弾不足ですね。全体的に見て今のソニーは二兎を追う者は一兎をも得ず状態に陥っているのではないか?自分たちの強みであるコアゲームで磐石の体制を作っておいて、KinectでWiiと戦うMicrosoftと違い、どこかチグハグ感の漂うのが今のPS3の立ち位置かな。


2010年4月30日金曜日

第9地区

1982年に南アフリカのヨハネスブルク上空に突如UFOが現れて、それ以来エビと呼ばれるエイリアンが住み着いてしまった架空の現在が舞台の映画で、主人公のヴィカスは住み着いたエイリアンたちを強制収容施設にエイリアンたちを騙して半ば強制的に移住させる仕事をしているのだけど、ひょんな事から自分もエイリアンになってしまい、人間に戻る事と引き換えに母星に戻ろうとするエビを助けた結果、人間たちと戦う羽目になるという内容で、ここだけ聞くとアバターにプロットが似ているのだけど、アバターは映像で観客を引きつけるのだけど、第9地区はサスペンスで観客を引きつける。

というのも、この映画はフェイクドキュメンタリーとして作られていて、エイリアンの強制移住の様子を取材していたら、ヴィカスが引き起こした事件に遭遇したと言う形になっていて、話の序盤はヴィカスの仕事ぶりを描いて、エビが猫缶に目がない様子(猫缶詐欺まである)とか、「俺に触覚を向けるな!!」とか笑えるシーンが続くのだけど、突然シーンが変わって"まさかヴィカスがあんな事に"というシリアスな物になる。

そこでヴィカスに何があったのかと思うわけだけど、ヴィカスは徐々にエビになって行くという病気というかウィルスに感染した事に気づく。そこから話は主人公がエビになる前に人間に戻れるのかと言う話に展開していく。しかも本来エイリアンしか使うことの出来ない兵器を使えるようになってしまった為に、その能力を欲しがる MNU (主人公が務めている企業でもある) という軍事企業や、エイリアンを食べるとその能力を手に入れる事が出来ると信じているナイジェリア人のギャング集団につけ狙われるという展開に進んでいく。

と逃げているうちに、クリストファーというエイリアンが主人公を人間に戻す方法があると教えられ、そのためにクリストファーと MNU へ襲撃したりと、アクションシーンが展開されるのだけど、MNU へ襲撃したときに、クリストファーが人体実験で殺された仲間の死体を見つけて銃弾が飛び交う中、立ち尽くすシーンがあって、それまで文化レベルの低い野蛮な存在として描かれていたエビが、非常に人格的で決して文化レベルが低い存在では無い事に気付かされる、こいつら見た目エビだけど俺たち人間と同じで喜怒哀楽をもった存在である事に気付かされるんだよね。

この映画上手く作られているのは、この部分で(エイリアンを人種と言うかは別として)人種による空間的差別を序盤で必要悪として描いていくのだけど、途中で差別される側の視点で描かれて、この視点の切り替えがすごくスムーズで脚本の妙を感じる。

ただ、この映画全体的にアクションシーンが雑というか、映像的にはカッコいいのだけど、エイリアンのロボット兵器に車で体当たりしたりとマッドマックスとかのオーストラリア映画なんかにありがちな雑さなんだよね。これはスプラッター描写にも同じ事が言えて、エイリアンの武器で人間が木っ端微塵になる描写があるのだけど、細かくなりすぎてスプラッター描写じゃ無くなっているんだよね。まあ腕もげとかはあるんだけど・・・スプラッターという程でもないし。そういう点ではアクションシーンは期待はずれかな。エイリアンの武器とかのデザインは80年代調のアバターに比べるとより近代的ですね。

で、まあこの映画は南アフリカが舞台で劇中で隔離政策が扱われるので、アパルトヘイトを扱った映画ではあるのだけど、アパルトヘイトを単なる黒人差別という認識で見ると、映画の内容を見誤る。いちおう序盤で”ヨハネスブルクの200Km先に隔離するので、もうエビを見ることはありません”というセリフが出てきて、アパルトヘイトの本質というのはそこなんだよね。つまり一般的に思われている黒人差別は理不尽な抑圧という文脈で語られるのだけど、そうじゃなくて、見たくないものを見なくて済むようにする。あるいは見せないようにするのが本質なわけで、そういう点でヴィカスという主人公は見たくないものを見ずにきたわけで、途中クリストファーの子どもが父親に「父さん僕たち母星に行くの?」と聞くとクリストファーは子どもに「いやここに行くんだよ」と強制収容所のパンフレットをみせて「ここは今住んでいるところ綺麗で良いところなんだ」言い聞かせるのだけど、それを見ていたヴィカスは自分が本当は何も見てなかった事に気づくんだよね。なので、アパルトヘイトを単なる人種差別と同列にみなすと少し違った印象の映画になる。アパルトヘイト関連で言うと仲間を助けるために地球から脱出するといのが”遠い夜明け”に似ているかもね。

2010年4月23日金曜日

けいおん!!

みんな大好きけいおんなんだけど、第二期の1話を見た時から、すこし嫌な予感をしはじめている。

このけいおんってアニメは平沢唯って女の子が軽音部に入るって話なのだけど、入ってからは基本的に話が進まないという特殊なアニメで、話が進まに事自体はレギュラードラマとしては定番なんだけど、けいおんが特殊なのは時間が進んでいく所で、ちゃんと進級するんだよね。基本的に部室でワーキャーやっているだけなので一年生のまま半永久的にやっていれば良いのだけど、このアニメは何故か進級してしまった。つまり何も起きないストーリードラマという不思議な構造になっている。

話が進めば登場人物が年をとるのは当然の話で、ドラえもんののび太やサザエさんのカツオのように、永遠と小学校に留年し続ける方が実は不自然ではあるのだけど、けいおんの場合時間軸が進むと、演奏が上手くならないといけないと言うジレンマがあって、それをやると今度はけいおんの魅力であるユルフワボンクラ空間が壊れてしまう。

というのも、じゃあなぜ平沢唯の演奏が上手くならないかというと、ようはティータイムばかりしているからなわけで、上手くなるにはけいおんの売りを止めないといけない、それを回避するには急に上手くならないと行けないのだけど、それをやるとドラゴンボールで言うところのインフラが起きてしまい、それ軽音じゃないよと言う次元に入ってしまう。そうなると落とし所が難しいのと、そもそも上手い演奏って音で聞かせて視聴者を納得させるのは難しくて、ビジュアルで魅せたハルヒの激奏とはそこが違う。

その状態で2クールやるのは無謀で、何処かでゴールを設定するか(例えば唯にとっては演奏するのが困難な楽曲を演奏するとか)、ウルトラCとして永遠に2年生をやるか・・・。CD売りたいとか作り手側の思惑が見え隠れする2クールなんだけど、息の長い作品にしたけらばレギュラードラマ化した方がいいんじゃないかなー?

のだめカンタービレ 最終楽章 前編 特別版

テレビ用の短縮版ですね。話としてはマルレで常任指揮者として奮闘する千秋の物語。

まあドラマファン向けの映画で、単体作品のストーリーとして何を描きたいのかがよく分からなくて。もちろんそれは映画が前後編という形をとっているせいもあるのだけど、やっぱ原作をなぞっているだけに見えるんだよね。で内容的にも先行して作られたアニメ版に比べるとドラマ版と同じでギャグの部分が過剰というか、マンガやアニメなら許されるギャグを実写でやられるのは、やっぱ辛い。

あと途中で外人が日本語話す事に関する注釈がでるんだけど、あれいる?シュトレーゼマンを竹中直人がやっている時点でそこはクリアされているだろって気もしたり、粗を探したくなる映画ではある。

ただアニメ版と違って音楽パートは良くて。マルレで始めて指揮をしたときに、オケがボロボロの描写があるのだけど、アニメだとただボレロを流すだけだったのが、実写版ではちゃんと演奏されていてヘタさ具合が出ていたり、映像と音楽を組み合わせているのでそこはいい。というか、この話って千秋が成長する話というより、音楽が人を成長させる物語なんだろうな。実際音楽が流れていないシーンの登場人物たちは操者のいない人形のようなんだけど、音楽が流れ出した途端に活き活きと動き出すんだよね。終盤で千秋が指揮をしながらピアノを演奏するシーンがあってコレは後編への伏線というかストーリーの推進力になっていくのだけど、このシーンでの躍動感は素晴らしい。ただ竹中直人に意味を説明させたら駄目だよな。

そういった意味でいえば、のだめの実写化という点では成功している映画で、マルレオケの楽団員の子どもを預かる件は音楽が主人公を成長させた様子を描いていて良いね。

まあ原作を始めドラマやアニメを見てなくても成立するのか?というと難しいというか無理なので単体の作品としては難有りなんだけど、だからといって否定はできない映画ですね。

2010年4月19日月曜日

ケータイ小説家 北川悦吏子

北川悦吏子の復帰作として、また Twitter ドラマとして注目された"素直になれなくて"なんだけど、正直ガッカリというか残念ですね。

それは単にドラマ内の Twitter の描写がトンデモだからという事ではなくて、このドラマはケータイ小説と同じ構造で、五人の群像劇にはなっているのだけど、登場人物全員が負の要素を背負わされていて、五人揃うと負の幕の内弁当みたいな事になる。ケータイ小説同様、このドラマには普通の人が誰もいない。それは安易なアイコンとしての舞台の為に街の空気感を一切感じる事のできない渋谷(=若者の街)や、Twitter の使い方といった、設定に対する無知さもケータイ小説的で、渋谷という現実の舞台で人と人とのコミュニケーションを扱っているのに完全な異空間を形成してしまっている。

もうひとつの問題としてキャラクターの設定だとかセリフが古いくて、感覚的には 95年から96年あたりで止まっている印象を受ける。例えばヒロインが教員を目指す動機が金八先生だったり、セリフにしても関めぐみが終盤で Twitter やる理由を "みんな繋がっていたいんだよね"と自己分析する。これに似た話しとしてエヴァンゲリオンに"鳴らない電話"というのがあるのだけど、そこでは携帯電話を持っているけど、誰からも着信がこない事で主人公が社会と繋がっていない様を表す描写がある、つまりエヴァが放映された95年とかだと”繋がる”という行為に意味があったのだけど、2010年の現在これだけ携帯やネットが発達し、繋がっている事その物よりも、どう繋がっているかがポイントになっているのに、繋がっているかどうかは時代錯誤的な気がしてしまう。

この時代錯誤感はギャグにも表れていて、ヒロインは受け持った授業でスピッツの歌詞を使用して、そのことを上司に怒られるシーンがある。まずスピッツを引き合いに出すのも時代を感じるのだが、そこでその上司「ブルドックなんて使って」というギャグを言う。このセンス自体が90年代中盤のオヤジギャグを真空パックしたしたような物で、余計に古さを感じてしまう。

総じて見て取れるのは、このドラマがケータイ小説的なファンタジーと、空気感だったり出てくる大人にいい奴がひとりもいないという一種の尾崎イズムに染まっていたりと感覚が90年代中盤で思考停止しているし、素直になれない事と嘘をつく事は全く違う事なはずなのに、このドラマでは同列に扱っているのはどうかと思う。

でまあ、これからの期待としては(正直おかしな Twitter 描写をがないと、ただつまらなくてゲンナリしてはいるのだけど)話の展開上なぜ嘘を付く必要があるのかを明かす必要が出てくるだろうから、その時に”寂しい”とか”認められたい”とか自己承認的な動機以外の理由を提示出来るのかと、あと一番重要なのは誰も死なない事。このふたつがクリアされなかったら、雫井脩介が書いたクリーズドノート的作品という位置づけ以外難しいかな。

2010年4月6日火曜日

prefwindow を Chrome に移植してみた

Chrome の拡張機能は設定を localStorage を使用して保存する。HTML5 の機能を使っているとはいえ、やっている事自体は Firefox で言うところの nsIPrefBranch とかわらない。ただいちいち、設定の値を取り出してフォームを弄るのは面倒くさいので Firefox の prefwindow に似た仕組みを Chrome に移植してみた。

仕組みは簡単でオプションページの HTML  に 
preference という要素を追加しておき、その要素の name 属性に設定の名前を書いておく。次にその設定に関連する input 要素の preference 属性に設定の名前を書くことで、設定とフォームが紐付けされる。たったそれだけの手間でオプションページのためにコードを書く必要が無くなる。

今はまだラジオボタンにしか対応してないので、スクリプト単体では公開しないのだけど、ブックマーク検索の ver 0.5.6 以降にバンドルされます。

2010年4月2日金曜日

ソラノヲト

このアニメは簡単にいうと、永遠のモラトリアムを享受している主人公達が、否応無く戦争に巻き込まれていく話で、実際休戦下の砦が舞台にも関わらず、明確な敵の存在が皆無なんだよね。これってパトレイバーでの特車二課の描かれ方に似ていて、あれに出てくる主人公達も普段は東京湾の埋立地という社会から隔離された環境で、のんべんだらりと生活していくのだけど、一度事件が起きると社会と関わりを持たざるを得なくなる。パトレイバーの場合はそこでキャラクター達のギャップが引き起こすドタバタが面白いわけだど。基本的にソラノヲトも最初の10話は終わらない夏休みであって、ラスト2話で強制的に外部に関わる事を強制される(戦争に巻き込まれる)という話。

ただこの話何点か問題があって、一番問題なのは戦争描写の部分で、11話で好戦的な軍人が出てくるのだけど、この軍人の動機付けが「戦争が技術を進歩させる」的な物で、それって軍人の動機じゃなくて、マッドサイエンティストの発想だし、この軍人はさんざん冷酷キャラの位置付け描かれているのに、民間人に銃を向けないんだよね。だからただの口だけ番長になってしまっていて、ここが弱いせいで戦争と言う行為が頭のおかしな人達がやる物だよね的な酷く矮小化されてしまっているんだよね。

もう1つの問題はリオの描き方で、リオは10話で砦から離れるのだけど、最終話のラストで砦戻ってきちゃうんだよね。まあこれは続編作りたいからとか色々な思惑を汲み取れなくも無いのだけど、それをやるのであればやっぱり、リオを主人公にすえるか、暗喩で終わらせないとダメなんじゃ無いかと思う。


2010年2月20日土曜日

なぜ Buzz は嫌われるのか?

これだけ期待されてデビューされたはずなのに、気付けば Google Buzz はガラクタになっている。考えるに三つの要素が関係しいてる。

1. 期待しているものと違った
Twitter に対抗するという触れ込みだったのに、実際に出てきたのは Facebook のような SNS だった。

2. プライバシーがざる
Gmail の新機能というよりも、Google の新しいサービスと言えるものを、強制的に追加する事も問題だし。メールの世界ではオプトインが主流なのに、Google のプライバシーはオプトアウトというのは例えコントロールができると言っても相容れない。Google はメールアドレスを収集する時はオプトインなのに、氏名といったプライバシーに関してオプトアウトというのは、誰の目から見てもアンバランスな対応ではないだろうか?

3. そもそも Google らしくない
Gmail がデビューした時(くしくもエイプリルフールだった)、誰しもギガバイト単位のストレージなんジョークだろ?と思ったものだ。だが気付けば、いまや7ギガオーバーのストレージと高性能な検索やスパムフィルタ。さらにはモバイルデバイスとの同期まで可能なメーラーになっている。Google Docs にしてもワープロや表計算といったソフトをブラウザだけで使えるようになり、いまや PDF や PTT ファイルまでプラグインや専用のビューアー無しで見れるようになっている。そう Google は本来イノベーションを軸とした会社だったはずだ、しかし Google Buzz についてはどうだろうか。

残念な事に Buzz は Facebook の模倣でしかない。Facebook には既に Buzz のようなステータス機能やフィードを自分のタイムラインにインポートする機能に Google Talk のようなチャットまである、これでもし Facebook がメールサービスを始めでもしたら Gmail との違いは無くなってしまう。もっとも Google 以上に伸び盛りの企業のサービスを真似して自社のサービスやアプリケーションに取り込むのが上手な会社がある。それは Microsoft だ。つまり今回の Google のやり方は、Google を支持するユーザーが一番気に入らないやり方と言う事なのでないだろうか?


もちろん、Google Buzz はただの模倣品ではない。Gmail 上から使う限り気付かないが、位置情報と連動したモバイル版の Google Buzz は便利で、モバイル版の Google Maps 上から Buzz の投稿を見ることができるので、普及すればこの店混んでいそうだから他の店に行こうと言った使い方も出来る。プライバシーの問題も過大評価されている側面がある。もっともユーザーが Google のサービスを使用する上で自分のプライバシーをコントロールできていると思えない限り、どんなにイノベーティブになってもBuzz は Google 家の問題児のままだろう。

2010年2月19日金曜日

ポメラとノートを比較してみた

定番の比較ネタ。ポメラの廉価版と、ノート界の雄キャンパスノートを比較してみた。


メーカーキングジムコクヨ
モデル名ポメラ DM5キャンパスノート ノ-3A
発売日2010年03月09日1975年08月
表示文字数26字×17行(12×12ドット表示時)24字×30行(文字数は平均的な目安)
最大保存文字数8000文字 × 6 (microSDHCカードで拡張可能)21600文字 (大容量モデルの ノ-10A も有り)
入力デバイス折りたたみ式QWERTY配列キーボードえんぴつ (別売り)
かな漢字変換ATOKあなた自身
バッテリー25時間(単四アルカリ電池2本使用)無限
価格20,790円157円