2010年10月13日水曜日

DevQuiz

Google Developer Day に参加する資格があるかどうかを確認するための方法として Google がクイズを出してそれを元に参加資格を決めるという事をやったのだけど。たしかに Google 規模の会社になると、開発者向けのイベントだとしてもそうでない人が沢山紛れ込んでしまう問題はあるし、特に去年は Android を配ってしまった物だから、そういった物を期待する人達も出てくるので、クイズで基準を満たすユーザーだけを選ぶというのは間違ったことではないのだけど、問題なのはゲームとしてこのクイズを見たときにはっきり言ってこれクソゲーなんだよね…。

なにが問題かというと、ゲーム内のスコアと実際に出席の基準となるスコアが別にあって、尚且つゲームが終了しないと、その基準となるスコアが分からないと言う部分。確かに相手の手札が見えないのはスリリングではあるのだけど、パックマンの問題のようにスコアが青天井の場合、ゲーム内における目標の設定が出来なくなるので、ゲームというより作業に近くなる。そこまでの忠誠心を Google が求めているのなら、それは正しいのだが…。もうひとつの問題としてゲーム中に得点補正の効果が分からないという問題がある。このクイズの特徴として正解者が多い問題はプライオリティーが下がって出席基準のスコアが下がるしかけに成っているのだけど、自分が回答したせいで、どれだけのユーザーにダメージを与えているのか分からないから、他の問題を解く理由が無いのだけど、ゲーム内のスコアと実際に出席の基準となるスコアが別になっているせいで、すべてのゲームを解く必要があるように感じてしまう。結局本来このゲームのプレーヤーは自分対他のGDD参加者なはずなのに、ゲームデザインがおかしいせいで、自分対Googleになってしまっていて、本当だったらもっとソーシャルなゲームになるはずだったのが、運営の下手さもあって、理不尽なゲームマスターが仕切るゲームになってしまった。

借りぐらしのアリエッティ

正直にいうと、初監督作品という要素を引いても褒められた内容の映画では無いと思っていて。なんでつまらないかと考えたときに、未回収の伏線だとかオチの弱さと言った、シナリオ面が弱いのかなと思っていたのだけど、よくよく考えるうちにこれは単純に映画を完成させる事で精一杯で、シナリオの表層部分だけをなぞるだけで終わっている気がする。

この映画でひとつ特徴的なのがクライマックスの手前で、翔くんがアリエッティに自分の病気を告白する件で、アリエッティにひどく意地悪な事を言う。その内容が自然淘汰と言った環境に関する内容なので、宮崎駿のいつもの小言なのかと思うのだけど、実はこれってアリエッティが光なら翔くんは闇である事の暗喩なはずなんだよね。

というのも、この翔くんは心臓を患っているせいで自由に出歩くことができない、祖母の家という狭い空間だけが彼に取っての世界なんだけど、それとは対照的にアリエッティは自由に出歩いて借りをし、さらには外の世界に引っ越そうとまでしている。つまりアリエッティこそ、翔くんが理想とする自分なのだけど、劇中ではこの二人の関係が好意以上恋愛未満に終わってしまっていて、アリエッティの母親を助けるのも単にアリエッティにカッコいい所見せたいといった所で止まってしまっている。

でも本来彼がアリエッティを助けるのは、アリエッティの気を惹くためというより、自分がアリエッティの代わりにもっと言えば自分がアリエッティになる事が目的だからこそ、危険な事を進んでするわけであって、それは金田正太郎が鉄人28号の肩に乗って操っているのと同じ構図なんだけど、アリエッティと翔くんの対比が弱いから好き嫌いの話になってしまっているのが残念かな。

2010年9月13日月曜日

mixi のロートル感

mixiがソーシャルグラフプロバイダー宣言をした。ただ残念な事にその内容は自分達がソーシャルになれない事を公衆の面前で明らかにしたに過ぎない。例えば mixi チェックについて考えてみよう。自分のサイトページに mixi チェックを置く場合、ユーザーは自分のサイトを mixi に登録する必要がある。そんなバカな話があるだろうか? Facebook の Like ボタンはサイトを登録しなくても誰でも使うことができる。

さらにページに OpenGraph Type 属性を埋め込んでおけば、映画や音楽について扱ったページの場合自動的に、自分のプロフィールのお気に入りに追加してまでくれる。それに比べて mixi チェックはどうか?はてなスター再発明にすぎない。これの何処がソーシャルグラフなのだろうか、単にユーザーの趣味趣向を貯めこんでマネタイズするだけのマーケティンググラフなのではないか?

しかも溜め込んだソーシャルグラフを利用するための mixi Graph API に至っては法人にしか開放していない。これの何処がオープンなのか?イノベーションを恐れる物に出来るのは、狭い島に閉じこもるだけだ。

デジタルネイティブを優遇した発表会も、やっているのは結局旧態然とした提携発表、そんなのは身内の学芸会でやれば良い。自分たちがロートルである事を示しただけだし、だいたい TechWave のようなおじさん達を満足させるための学芸会にはウンザリなんだよ!!

2010年8月28日土曜日

20世紀少年

漫画原作の答え合わせ映画としては悪くないのだけど、映画として致命的な欠陥を抱えたまま終わっている。

その欠陥はなにかというと、ともだちの正体を話の中心に据えている部分で。これは連載漫画のように不定期に続く物の場合には、演出として有効なんだけど、映画の場合それを中心に据えると伝えたい事がぼけてしまう。例えば第3章のエンドロール後の10分くらいの映像だけで、言いたいことは言えるわけなんだけど、ともだちの正体を話の中心に据えたせいですごい遠回りを観客に強いているだけじゃなくて、本来描くべき、なぜ人々がともだちに熱狂し支持したのかという部分が弱くなっているので、相対的にともだちがよげんの書を使って何をしたかったのかが見えにくくなっている。

劇中でともだちはテロの予言を的中させて、人々の信頼を得ていくわけなんだけど、それ自分たちで地下鉄に毒ガスまいて予言が的中しましたと言うような物で、やっぱりそれだけで観客を納得させるには無理がある。だとすると劇中世界の中での人達の心情を描くべきではあるんだけど、1章が血の大晦日で終わって、2章がともだちが信頼を勝ち得た後から始まるので、ともだちが人心を掌握していくプロセスが見えてこない。3章でユキジが科学特捜隊を「子どもじみた真似」と言うのだけど、ともだちが行うすべての事が子供じみてみえるし、あの世界にいる人達全員が幼稚に見えてしまう。

その幼稚さに拍車をかけているのがギャグの部分で、例えばオッチョが塀を越えるシーンや、ケンジが偽造手形を使うシーンって、これ本当は笑いのポイントなはずなんだけど、作り手がギャグとして作ってないし、出てくる人間たちが幼稚にしかみえないので、笑えなくなっている。これが全体のメリハリを無くしてしまっている気がする。

来週の楽しみが増えるという点において原作でのともだちの正体探しという話は王道だとは思う。ただそれが単体の作品ないしは3部作でひとつの作品を構成する映画の場合、それはメリハリの無いタダの答え合わせになってしまう。折角あれだけのお金をかけて作るのであれば映画の特性に合ったともだちやそれを支持する人達の内面をもっと描いて欲しかったかな。

2010年8月26日木曜日

インセプション

インセプションを遅れ馳せながら見てきた。感想としてはサスペンスとしては1流だけどSFとしては2流という言ったところか。

SF的な部分で一番問題だなーと思ったのは、夢の中に入る仕組みや、劇中で渡辺謙やキリアン・マーフィーが受けている夢の防衛方法についての説明が無いから、すこし唐突に見えてしまう(夢という設定なら、騎士や魔法使いが出てきてもおかしくないのに、みんな武装警備員だ)。劇中の設定では夢を共有する事で侵入するというふうに説明されているのだけど、じゃあそれ誰の夢なの?という疑問は常に付きまとうんだよね。ユング的な何かと思えば説明はつかないことはないが・・・。

ただ今回書きたいのはそんな事ではなく、この映画のラストシーンについて。この映画はラストの直前で冒頭のシーンに戻るというスタイルを取っているのだけど、冒頭のシーンの続きを一切カットした形でラストシーンに入る。この続きの部分というのはそれまでのサスペンスのクライマックスに当たるシーンなわけだけど、ここをバッサリとカットすることでラストシーンで観客にある疑問を抱かせる。それは主人公が実は未だに現実から帰還せずに夢のなかに居るのでは無いかと?

しかし、この映画において重要なのは主人公が夢から帰還したの、それとも未帰還なのかではなく、観客ひとりひとりが、それをどう捉えるのかの方が重要で。というのも、中盤で現実より夢を選んでいる人達が出てくる。これは押井守がビューティフルドリーマーやアヴァロンなんかでやってきた「現実ではなくても、それがその人にとって気持ち良いものならば、それはその人にとっては現実ではないのか?」というテーマと同じ問題をインセプションでも扱っていて、家族と再会するという幸福なラストシーンを夢と見るか現実とみるかは、すなわち夢と現実のどちらを幸福とみるかを観客に選ばせているのと同じ事をしている。あくまでも観客の内面を暴く以上、主人公が帰還したかどうか議論するのは不毛なような気がする。