2011年1月12日水曜日

H.264

Google Chrom が H.264 のサポートを打ち切る。これはオープンフォーマットを推進するというよりも、自社フォーマットの WebM を促進するための強攻策であると同時に、Chrome が市場に影響力を与えるだけのシェアを持ち始めた事に対する Google の自信の表れだろう。

実際問題として現時点で H.264 をサポートしているのは Chrome と Safari。そして存在しない IE9 だけだ。つまりブラウザシェアを考えると H.264 をサポートしてないブラウザの方が圧倒的に多い事になる。

もちろん広く使用されている H.264 を採用するほうが、作り手側はすべて H.264 で統一できるし、高性能なエンコーダーもあるので、メリットが大きいのだが、その反面後発のフォーマットである WebM への足かせになっている。仮に似た様なスペックでどちらでも使えるのであれば宗教的な事情が無い限り、枯れたフォーマットを使い続けるのは当然の流れだろう。結局の所 WebM はいくらロイヤリティーフリーとはいえ代替の存在でしか無いのだ。

しかし Chrome が H.264 を切れば状況は逆転する。これは MS と Apple の喉元にデファクトスタンダードという刃を突き付けるに等しい。

2011年1月11日火曜日

自然な 3D = 2D

少し前に Tron:Legacy をみた。映画自体は CG で復元された若かりし頃のジェフ・ブリッジスを除いて、観終わった後のガッカリ感も含めて Tron だったわけだが、この Tron:Legacy にも Avatar で使われた Fusion Camera System が使われているのだけど Tron には、最新の Sony F35 というカメラが使われている。この F35 というカメラは映画の上映に使われるフィルムと同じ大きさの 35mm という大型の CCD を使用して、フィルムと同じ情報量をデジタルで記録できるという優れもので、Avatar で使われている F23 と比較して自然な被写界深度を再現出来るようになっている。

例えば Avatar は被写界深度を補うために極端に奥行きを与えた映像にしていて、立体感が分かりやすく作られていた。逆に言えば画面の手前に常にオブジェクトが存在するという不自然な 3D なわけだど、Tron:Legacy ではそう言った演出を添加しなくても、撮影の時点で奥行きを出せるようになっている。

これは一見映像演出として効果がある技術革新に思えるのだけど、そもそも 2D の映像にはフォーカスによって奥行き情報が添加されている。例えば手前に人が立っているとして、その背景がボケているなら奥行きを感じるわけなんだけど、最初から奥行きの情報が添加されている 3D 映画の場合、フォーカスを与えると不自然な空間が作られて目の疲れにも繋がるし、逆にフォーカスを与えないと観客に与えたい情報を与えられないというジレンマに陥る。しかも自然な 3D 映像を作れるようになればなるほど、そのジレンマが増えてくる。

結局の所人間は 2D の映像であっても、脳内では 3D に変換して見ているわけだし、照明効果を初めとして撮影技法の進歩というのは、2D の映像をいかに擬似的に 3D にするのかという歴史でもあったわけなので、結局自然な 3D を追求していくと 2D と同じ見え方という事になるんじゃないだろうか?その点を踏まえると 3D 映画は風景写真のようなワンカットの連続的な表現が良いという事になる。もちろんそれを映画と言って良いのかという問題は別に存在するわけだが…。

2010年11月5日金曜日

TechWave について書いておく

TechWave の批判記事を書くと編集長の湯川氏に BAN されるらしいので、同じく Twitter の不具合なのか BAN されているぽい身として、ここいらで以前から思っていた問題点を書いておく。

TechWave がブログメディアとして基本的に問題あると思うのは、記事の内容が他サイトのコピペであるという部分で、中には本来 TechWave と競合関係にあるはずの TechCrunch の記事を情報源にしている。もちろん IT 関係の出来事はアメリカが中心になるので、他メディアの記事を情報ソースにするのは致し方ない事なのだが、それにしもて TechWave の独自の視点がすべて "蛇足:オレはこう思う" という記事末尾のワンコーナーしかない。つまり TechWave で述べられる意見や考えは、すべて記事執筆者の個人的な意見に過ぎないわけで、TechWave としての意見は無いという事になる。

もちろん個人が主役というのなら、それも結構だが、だとするなら意見の偏りはどう説明するのだろうか?TechCrunch は iPhone をべた褒めする中でも Michael Arrington が iPhone から Android に乗り換える記事を掲載した。もし TechWave が本当にソーシャル思考であるなら、執筆者全員が電子書籍やソーシャルといったバブリーな記事に偏っているのはどういう事なのだろうか?そこに疑問を差し挟む視点を持てないの何故だろうか。そんなマスをターゲットにした記事は週刊ダイヤモンドがやれば良い。少なくともバブルに乗るのはネットメディアがやる必要の無いことだし。それはソーシャルメディアの特性を理解している人間がやることではない。

2010年10月13日水曜日

DevQuiz

Google Developer Day に参加する資格があるかどうかを確認するための方法として Google がクイズを出してそれを元に参加資格を決めるという事をやったのだけど。たしかに Google 規模の会社になると、開発者向けのイベントだとしてもそうでない人が沢山紛れ込んでしまう問題はあるし、特に去年は Android を配ってしまった物だから、そういった物を期待する人達も出てくるので、クイズで基準を満たすユーザーだけを選ぶというのは間違ったことではないのだけど、問題なのはゲームとしてこのクイズを見たときにはっきり言ってこれクソゲーなんだよね…。

なにが問題かというと、ゲーム内のスコアと実際に出席の基準となるスコアが別にあって、尚且つゲームが終了しないと、その基準となるスコアが分からないと言う部分。確かに相手の手札が見えないのはスリリングではあるのだけど、パックマンの問題のようにスコアが青天井の場合、ゲーム内における目標の設定が出来なくなるので、ゲームというより作業に近くなる。そこまでの忠誠心を Google が求めているのなら、それは正しいのだが…。もうひとつの問題としてゲーム中に得点補正の効果が分からないという問題がある。このクイズの特徴として正解者が多い問題はプライオリティーが下がって出席基準のスコアが下がるしかけに成っているのだけど、自分が回答したせいで、どれだけのユーザーにダメージを与えているのか分からないから、他の問題を解く理由が無いのだけど、ゲーム内のスコアと実際に出席の基準となるスコアが別になっているせいで、すべてのゲームを解く必要があるように感じてしまう。結局本来このゲームのプレーヤーは自分対他のGDD参加者なはずなのに、ゲームデザインがおかしいせいで、自分対Googleになってしまっていて、本当だったらもっとソーシャルなゲームになるはずだったのが、運営の下手さもあって、理不尽なゲームマスターが仕切るゲームになってしまった。

借りぐらしのアリエッティ

正直にいうと、初監督作品という要素を引いても褒められた内容の映画では無いと思っていて。なんでつまらないかと考えたときに、未回収の伏線だとかオチの弱さと言った、シナリオ面が弱いのかなと思っていたのだけど、よくよく考えるうちにこれは単純に映画を完成させる事で精一杯で、シナリオの表層部分だけをなぞるだけで終わっている気がする。

この映画でひとつ特徴的なのがクライマックスの手前で、翔くんがアリエッティに自分の病気を告白する件で、アリエッティにひどく意地悪な事を言う。その内容が自然淘汰と言った環境に関する内容なので、宮崎駿のいつもの小言なのかと思うのだけど、実はこれってアリエッティが光なら翔くんは闇である事の暗喩なはずなんだよね。

というのも、この翔くんは心臓を患っているせいで自由に出歩くことができない、祖母の家という狭い空間だけが彼に取っての世界なんだけど、それとは対照的にアリエッティは自由に出歩いて借りをし、さらには外の世界に引っ越そうとまでしている。つまりアリエッティこそ、翔くんが理想とする自分なのだけど、劇中ではこの二人の関係が好意以上恋愛未満に終わってしまっていて、アリエッティの母親を助けるのも単にアリエッティにカッコいい所見せたいといった所で止まってしまっている。

でも本来彼がアリエッティを助けるのは、アリエッティの気を惹くためというより、自分がアリエッティの代わりにもっと言えば自分がアリエッティになる事が目的だからこそ、危険な事を進んでするわけであって、それは金田正太郎が鉄人28号の肩に乗って操っているのと同じ構図なんだけど、アリエッティと翔くんの対比が弱いから好き嫌いの話になってしまっているのが残念かな。