2010年4月19日月曜日

ケータイ小説家 北川悦吏子

北川悦吏子の復帰作として、また Twitter ドラマとして注目された"素直になれなくて"なんだけど、正直ガッカリというか残念ですね。

それは単にドラマ内の Twitter の描写がトンデモだからという事ではなくて、このドラマはケータイ小説と同じ構造で、五人の群像劇にはなっているのだけど、登場人物全員が負の要素を背負わされていて、五人揃うと負の幕の内弁当みたいな事になる。ケータイ小説同様、このドラマには普通の人が誰もいない。それは安易なアイコンとしての舞台の為に街の空気感を一切感じる事のできない渋谷(=若者の街)や、Twitter の使い方といった、設定に対する無知さもケータイ小説的で、渋谷という現実の舞台で人と人とのコミュニケーションを扱っているのに完全な異空間を形成してしまっている。

もうひとつの問題としてキャラクターの設定だとかセリフが古いくて、感覚的には 95年から96年あたりで止まっている印象を受ける。例えばヒロインが教員を目指す動機が金八先生だったり、セリフにしても関めぐみが終盤で Twitter やる理由を "みんな繋がっていたいんだよね"と自己分析する。これに似た話しとしてエヴァンゲリオンに"鳴らない電話"というのがあるのだけど、そこでは携帯電話を持っているけど、誰からも着信がこない事で主人公が社会と繋がっていない様を表す描写がある、つまりエヴァが放映された95年とかだと”繋がる”という行為に意味があったのだけど、2010年の現在これだけ携帯やネットが発達し、繋がっている事その物よりも、どう繋がっているかがポイントになっているのに、繋がっているかどうかは時代錯誤的な気がしてしまう。

この時代錯誤感はギャグにも表れていて、ヒロインは受け持った授業でスピッツの歌詞を使用して、そのことを上司に怒られるシーンがある。まずスピッツを引き合いに出すのも時代を感じるのだが、そこでその上司「ブルドックなんて使って」というギャグを言う。このセンス自体が90年代中盤のオヤジギャグを真空パックしたしたような物で、余計に古さを感じてしまう。

総じて見て取れるのは、このドラマがケータイ小説的なファンタジーと、空気感だったり出てくる大人にいい奴がひとりもいないという一種の尾崎イズムに染まっていたりと感覚が90年代中盤で思考停止しているし、素直になれない事と嘘をつく事は全く違う事なはずなのに、このドラマでは同列に扱っているのはどうかと思う。

でまあ、これからの期待としては(正直おかしな Twitter 描写をがないと、ただつまらなくてゲンナリしてはいるのだけど)話の展開上なぜ嘘を付く必要があるのかを明かす必要が出てくるだろうから、その時に”寂しい”とか”認められたい”とか自己承認的な動機以外の理由を提示出来るのかと、あと一番重要なのは誰も死なない事。このふたつがクリアされなかったら、雫井脩介が書いたクリーズドノート的作品という位置づけ以外難しいかな。